地下室のニート

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流動性選好理論と資本の限界効率の有効性 『ケインズの経済学と価値・分配の理論』におけるガレニャーニ(特に第二~四章から)

 『ケインズの経済学と価値・分配の理論』はJ.イートウェルとM.ミルゲイトにより編纂された論文集である。本書はケインズの経済学と価値と分配の古典派理論を結び付けるという動機で刊行された書であり、ガレニャーニが1964年にイタリア語で公表した論文(第二章)は、本書にまとめられている論文の中でも特に重要な章である。それは、まさにロビンソンが本書の第三章において、ガレニャーニの当論文に対してコメントをつけており、それに対するガレニャーニの再反論(第四章)、第五章のミルゲイトとも関わりあっているのはもちろんのこと、この第二章の論稿によって、スラッファによって蘇った古典派の価値・分配の理論とケインズの経済学を総合し、ケインズに残された限界主義を徹底して捨て去ろうとする、本書全体のテーマに繋がる試みが問題提起されているためである。

 もしかすると、「古典派」の価値・分配の理論とケインズの経済学を総合する試みの意義がわかりにくい人がいるかもしれない。その内容をより具体的に述べるとすれば、ガレニャーニは古典派の方法論に立ち戻ることによって、ケインズが『一般理論』で受け入れていた「資本の限界効率」の土台、すなわちrとKを単調な関係で表す公準、これを否定するのである。もし、ケインズの理論から限界学派との妥協を取り除きたいと願うのであれば、分配を生産要素の需要と供給ではなく、古典派の政治経済学がそうしたように、社会的諸力に支配されたものだと考えなければならない。そうでなければ、利子の理論は容易に限界主義のもとへ立ち返ってしまうだろう。

 『一般理論』に精通されている方は、(ロビンソンがそうだったように)ガレニャーニの以上の批判に違和感を持たれるかもしれない。なぜなら、ケインズは貯蓄・投資の所得決定理論によって、まさに利子率に貯蓄と投資の調整役を求める伝統的理論を『一般理論』において棄却しようとしていたのであり、利子率の決定を別のところに、「貨幣」に求めたはずだからである。

 しかし、ガレニャーニによればそれは不完全なものであった。より大きい貯蓄決意がもたらす所得の減少という事実は、ニューケインジアンに”伸縮的な賃金の下で”、”貨幣政策により利子率をより引き下げうるならば”、投資の限界効率表に基づいて貯蓄の需給により長期均衡利子率を求めることができるといった結論を導くのを妨げることはなかった。

 であれば、伝統的理論を論駁するために必要になるのは、代替的な利子理論としてケインズが提示したと多くの論者が(ロビンソン曰く過大に)述べる流動性選好理論になるのだろうか。もちろん、ガレニャーニとしてはそうではない。流動性選好に過度の期待を寄せることは、利子率の「非伸縮性」を解決すれば完全雇用が満たされるというような、不完全主義者と同じ轍を踏む結果となってしまうだろう。問題は、不確実性や期待などといった不確定な概念にあるのではない。(ここで、少々ガレニャーニは不確実性と期待の役割を軽視しすぎているようにも個人的にはみえるが、趨勢的にいえば不確実性の一点張りでケインズ派の有効性を主張するような人も少なくないので、ここではガレニャーニらの肩を持っておく。)ガレニャーニにとっては、問題はより基本的なレベルで生じている。

 基本的なレベルで分配の理論を修正するために、ケインズによって「古典派経済学」として同一視された、リカードらの古典派経済学と限界主義の経済学との分析手法の違いを明確に理解する必要がある。 一部の人(特にケインズ派)は、一般的供給過剰の問題から、マルサスを過大評価し、リカードの方法を受け入れることに躊躇があるかもしれない。注意すべきであるのは、リカードはセイ法則を受け入れたけれども、それは失業が存在しないことを意味しない。セイ法則が意味するのは、資本の完全稼働のみである。ケインズが古典派のものと定義した貯蓄と投資を均衡化させる利子率は、リカードに存在しない。古典派の方法論を採用すれば、利潤率と価格を形成する産出の水準は需要と供給の理論に依存せず、再生産条件によって求められる。投資水準は利子率の関数だとか期待のみによって求められるわけではない。

ここでは有効需要の原理は開かれている。


参考文献:
J.イートウェル/M.ミルゲイト『ケインズの経済学と価値・分配の理論』石橋太郎・森田雅憲・中窪邦夫・角村正博訳 日本経済評論社,1989年